とりあえず無題

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世代を超えた「旅」というロマン。『深夜特急』を読んで。

 どうも、浪人生ブロガーのやまPです。

 

 

 

 

今回紹介する本は、沢木耕太郎作の不朽の名著、深夜特急である。

 

 

タイトルからは、『オリエント急行殺人事件』的な上質ミステリーっぽい雰囲気が醸し出されているが、本著はミステリー小説とはまったく無縁であり、作者の沢木耕太郎が放浪しまくるお話なので、勘違いされることのなきように。ちなみに僕は『オリエント急行殺人事件』は1ミリも読んだことはないので、上質ミステリーかどうかは一切保証しません。まあ、アガサクリスティーだからきっとすごいのだろう。

 

 

 

この本と出会ったのは結構前のことなのではっきりとは覚えていないが、僕がまだ花の高校生であった頃(今は花の浪人生)、図書館の本棚から適当に、あてずっぽうに本を選んで読むという謎企画で見つけたことは覚えている。

 

 

 

はじめこの本を選んだときは「うわ、、、なんだこの本、、、表紙も古めかしいし、作者も知らん人や。」「これはハズレ選んだかなー。」という印象を受けた。非常に失礼である。沢木さんごめんなさい。一瞬見なかったことにして棚に戻してしまおうかとも考えたが、今思えば戻さなくて本当に良かった。あの時の自分グッジョブ。

 

 

 

 

 

余計なことを書いてしまったので、そろそろ本題に戻ろう。

 

 

インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗合いバスで行く――。ある日そう思い立った26歳の〈私〉は、仕事をすべて投げ出して旅に出た。途中立ち寄った香港では、街の熱気に酔い痴れて、思わぬ長居をしてしまう。マカオでは「大小(タイスウ)」というサイコロ賭博に魅せられ、あわや……。一年以上にわたるユーラシア放浪が、いま始まった。いざ、遠路2万キロ彼方のロンドンへ!

    今回もアマゾンの紹介文をそのまま転載している。

 

 

 

  • 常人離れの発想

 

 まずこの紹介文を読んで皆さんは何を思うだろうか。僕がはじめに抱いた感想は

 

 

 

 

沢木耕太郎、こいつはヤバイ、、、。」である

 

 

 

なにがヤバイってデリーとロンドンがまるで隣町のような扱いをされている時点でまずやばい。一応補足しておくと乗り合バスとは、長距離バスとは異なる、我々が普段利用する路線バスのことで、決してインドからイギリスに行くための交通機関ではない。

 

 

 

 

この旅が、普通の人間には思いつくことすら不可能な、常人離れしたものだということはとりあえず伝わったと思う。この時点ですでに何かいやな予感はしていたが、、、

 

 

 

  • なかなか始まらない旅

  

途方もない旅の計画に困惑しながら、この本を読み進めていた僕はあることに気づく。

 

 

 

 

「あれっ、旅全然はじまってなくね、、、?」

 

 

 

 

この言い方だと語弊をまねくかもしれない。確かに沢木孝太郎は日本を出た。しかし、紹介文にもあるように、彼はずっと香港で遊んでいるのだ。

 

 

一応確認するが、この旅はインドからイギリスへ向かうものだ。みなさん是非世界地図か地球儀を持ってきて、よーく見てみてほしい。そうすれば分かるだろう。まだ彼がスタート地点にも立てていないことに、、、。

 

 

 

一応1ヶ月後くらいにインドに向かうので、旅が始まらずに終わりを迎える、なんてことはないので安心してね。

 

 

 

  • 旅と旅行の相違

 

このままでは、この本と作者がヤバイ!ということしか伝わらないので他のことも書かなければ。

 

 

そもそも、この本の作者沢木孝太郎が行う「旅」とはどんなものであろうか。似たような言葉に「旅行」というものもあるが、僕はこの二つには根本的な違いがあると思っている。(辞書的な意味というよりは、両者が与えるイメージという点でだ。)

 

 

「旅行」とは家族や友達と、しっかりと計画を立てて、観光やレジャーといったある程度明確な目的を持って行うものであり、対して「旅」とは基本一人で、漠然とした計画を元に、決まった目的なしにさすらうもの、と僕は勝手に考えている。他の人もある程度は似たイメージを持っているだろう。

 

 

その観点から見れば、前半に書いた作者の考えたとんでもない計画も、香港に滞在し続けてしまうような自由奔放な行動も大きな意味を持つ。つまり、沢木耕太郎は正真正銘、本物の「旅」をしていたということだ。

 

 

 

  • 旅の意味とは

 

 

 「旅」は「旅行」と異なり、決して楽しさいっぱい!なんてものではない。

 

 

泊まるドミトリーは他のバックパッカーと共同で利用し、シーツは洗われておらず、いつもシラミに悩まされる。利用するバスが時間通りに来ないのは日常茶飯事、揺れるし、勝手に止まるし、挙げ句の果てにはよく分からない言葉でぼったくられる。

 

日本の常識が通用しない、非日常が日常の毎日で、金もないなか、心身ボロボロになりながらも沢木耕太郎は「旅」を続ける。

 

 

 

 

どうして「旅」を行い、そして続けるのか。

 

 

旅が終わる間際に作者は旅が始まってからずっと考えていたこの大きな「問い」に、つの「答え」を出す。そこは皆さんが是非自分の目で読んで、確かめてほしい。

 

 

 

  • 世代を超える「旅」のロマン

 

 この本ははじめに僕が感じたように結構昔の本だ。具体的には、この本が執筆されたのは今から30年近く前、作者が旅を行ったのに至っては半世紀近く前の事であり、今とは生活も国の様子も全く異なる。

 

 

それでもこの本が今なお色あせない魅力を放ち、多くの人を旅へと駆り立てるのはなぜだろう。

 

 

一つは作者の嘘偽りのないまっすぐな文章から生まれる、文学作品としての魅力だろう。

 

 そしてもう一つの大きな理由は、誰の心にも存在する、旅へのあこがれという感情だろう。その感情は普段は日常の生活に押さえ込まれ、心の奥底に眠っている。

 

 

深夜特急が多くの人の心をとらえて放さないのは、その眠っている感情を解き放ち、日常を抜け出して、作者と一緒にあこがれの旅の世界へ連れて行ってくれるからに違いない。

 

 

今回はここまで。