とりあえず無題

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「文章を書きたい」は無理がある

「あー、何かブログに書きたい」、こんな考えが最近頭の中で四六時中渦巻いていたりする。気持ちは分からんでもない。文章を書いたら達成感はあるし、他の人が褒めてくれるかもしれないし、自分の思考の整理にもなる。時間を有意義に使ってる感も出せるし、なんなら「あー、何か文章が書きたい」って思ってるなんてなんかカッコいい気もする。

 

ただ、そうやって考え続けてるにも関わらず僕はこの1ヶ月間何も書いていない。浪人してる時と比べて今はコロナのおかげで時間だって無限に近いほどたっぷりあるのに。なぜかと考えてみたら理由は簡単。「文章を書きたい」は一見純度の高い欲求に見えるが、実際のところ空っぽで中身が一切詰まってない、無駄と言っても差し支えのないノイズ的思考だからだ。

 

これは「文章を書く」という行動そのものに焦点を当ててみればすぐ分かる。「文章を書く」とは言いつつ、本当に自分が書いているものはなんだろうか。それは当然、思考や感情、あるコンテンツについての解説や紹介といった具体的な内容である。つまり「文章を書く」とはすなわち「ある内容を書く」事であり、文章を書きたいと考えていたってそのある内容は一生思いつくはずがないのだ。

 

今までの自分を振り返ってみても、大体文章が書ける時というのは面白いマンガ、アニメ、本を見た時、新しい概念を学んだ時、何か感情を突き動かされるような経験をした時など、「文章を書く」という行為からは離れて自分がある文章を生み出すだけの質量を持った内容を得た時である。

 

反対に、特にすることがなく暇で、ただ漠然と何かをしなければいけない、そうだ文章を、ブログを書こう!という時にマトモな文章を書けた試しがない。にも関わらず、「文章を書きたい」と考えているのがあたかも高尚な欲求だと錯覚してそれに囚われ続けるからどんどん何も書けない沼にハマっていく。

 

「文章を書きたい」という欲求の正体は、はじめの方で述べた通り達成感を得たい、他人に褒められたいと言った以前何かについて文章を完成させた時に付随して得られた諸々を得たいという欲求にすぎない。

 

……。

 

久しぶりにnote開いてみたら、☝のなんかこわーい口調の文章が下書きにあったんだけど、なんかこの時気分でも悪かったのかしら。

ただ、今日noteで書こうと思ってたのも実はこの話題っていう方が実際はもっと怖い。いちいち文章書く手間は省けたけど、この半年間同じ事考ええるってことが証明されてしまったってことでもあるし……。