とりあえず無題

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実家と目標の話

突然ですが、今奈良の実家に帰っています。

 

どうせオンライン授業なのに京都にいる意味がマジのマジのマジで見いだせなかったので。

 

ところで、自分の家を実家と呼べるのは、実家以外の家に住んでる経験があるからですよね。「実家」との対比で「虚家」とでも呼ぶべきなのか。しかし、「虚家」とかいうとなんかブリーチっぽいですね。

 

久保先生ならどんなかっこいいルビを付けてくれるのか。「虚家(ホロウノイエ)」だと、なんか無料同人ゲームのタイトル感が否めない……。

 

 

よく実家を出て初めて親や実家のありがたみが分かるとはいいますが、実際それはそうだと思います。

 

で、ここで面白いのが、実家を出る前までは「実家」という概念がなかったということです。だってずっと家にいる小学生や中学生が自分の家のことを実家とは呼びませんからね。

 

実家をでて初めて実家のありがたみが分かるって、いや、実家出るまで実家はなかったんじゃないの……。という不思議な感じになります。

 

「あたりまえの良さは失って初めて気づく」なんて言いますが、こと実家に関しては、失って初めて「実家」の概念が手に入るわけですね。認識=存在みたいなやつ。

 

そんな例にもれず、僕自身も久しぶりに実家に帰ってくると、実家のありがたみをばっちり感じています。ご飯はちゃんと3食用意されているし、洗濯機は毎日回っているし、家の中も清潔できちんと整理整頓されています。

 

なにより、マロン(犬)もばっちりいるので、コミュニケーションを取ることで不要なストレスを浄化してくれます。

 

で、ここからが本題なんですが、実家にいると時間が余ります。もちろん少し(ほんとに少し)は家事を手伝うし、仕事もするし、授業も少し(ガチで少し)は受けているんですが、それでも時間が余ります。

 

するとどうなるかというと、何かやらないといけない気がしてきて焦り始めます。焦った挙句何も思いつかず、とりあえず仕事を増やしてみたりします。

 

ただ、仕事を増やしてみたはいいもののやる気は出ないので、だんだんたまっていきます。だんだんたまっていくと、「たまっている仕事が存在すること」自体が大きなストレッサーになって鬱になります。

 

どうしてやる気がでないのでしょうか。多分、今考えてみると「目標がない」というところに問題がある気はします。

 

この目標という概念は、根本的に昔から自分にかけている概念で、これがないことで自分の人生は3倍ぐらい不幸になっているとは思っています。唯一目標を持って動いたのは受験の時ぐらいでしょうか。巷でよく、「受験で燃え尽きてしまった人」みたいな揶揄がありますが、自分の場合は受験ぐらいしか真剣に取り組んだことがないので、燃え尽きたわけではありません。

 

って書いたけど、よく考えたら部活はまあそれなりに頑張ってったような気も……。というより、そもそも受験を真に頑張ったのか?という方が割と疑わしくはあるけれども……。

 

まあ、頑張ったかどうかは置いておいたとしても、自律的に目標を立てて動いたのは受験と高校の部活の弓道ぐらいというのはたぶん確かです。

 

自分のサンプル数n=2のうっっっっっっっすい経験でしか語れませんが、目標を立てている時って個別のしんどい事例はたくさんあるんですが、その個別のしんどいことにも「意味づけ」ができてる状態なので、非常に前向きな気持ちになれるんですよね。

 

例えば、個別に見たときに僕自身は「勉強」というものは基本的に嫌いなんですが、「受験」という目標の一部という刷り込みができていると、「勉強」に前向きに取り組めて、しかも「勉強」自体もなんだか楽しい気がしてきます。今ではいわゆる受験でやっていた「勉強」(英文読むとか)は、大学の授業でも全く受け付けなくなっているので、実は「自分は勉強が大好きだったんだ!」ということではないと思います。

 

つまり、目標の魔法によって嫌いだった「勉強」も好きなものに近い、もしくはそれを超える熱量で取り組むことができたわけですが、ここですごいことがもう一つあります。

 

それは、目標自身の正当性、妥当性みたいなものはあまり問題にならないということです。ちょっとわかりづらいのでさっきの受験の例を使うと、「受験」という目標に特に大きな思い入れがあったわけでもなく、何か達成しなければならない理由があったわけでもないけれど、「受験」が目標になると、なんかその目標を達成しなきゃいけない気がして、それに向けて頑張れたということです。

 

これは高校の時の部活も一緒で、元々弓道なんてやったことがあるはずもなく、弓道に対して強い思い入れがあったわけでもないけれど、弓道の試合や審査を「目標」に据えると、なんだかその「目標」を達成したい気がしてきて、それに向けて頑張りたくなったというやつです。

 

つまり、僕の中では「目標」が先か「やる気」が先かという問題には明確に答えが出ていて、「目標」が先ということです。

 

よく僕は何かをする時に「これにいったい何の意味があるのだろうか……。」と考えてだるくなってしまうタイプなのですが、これは恐らく「(自分の人生にとって)何の意味があるのだろうか」なのでしょう。どうも頭でっかちで意味を重視してしまうタイプなので、すぐに意味が見えないとなかなかやる気を出すことができません。

 

そして、「目標」を定めるという行為は恐らく先ほどの(自分の人生にとって)の部分を書き換える行為なのだと思います。つまり、「受験」という目標を定めることで、何か行動をするときに「(受験にとって)何の意味があるのだろうか」という視点を持ちだすことが初めて可能になります。

 

こうなると、「勉強」は行動前に考えてしまう癖を乗り越えることができるようになります。考えてしまう癖は自分が生来持っているものなので変えることはできませんが、新しく持ち出した「(受験にとって)何の意味があるのだろうか」という視点は「勉強」を邪魔するどころかむしろ、「勉強」は「受験」にとって有益だから頑張ってやろう!という気持ちの方向へ持って行ってくれます。別の言い方をすれば「勉強」という行動に意味づけができているということです。

 

結論を言うと、普段からめんどくさがりで何もやる気のできない僕のような人間は「(自分の人生にとって)何の意味があるのだろうか」と考えること自体をやめようとするのではなく(多分無理なので)、()の中を「目標」で書き換える、つまり(自分の人生にとって)という前提を、もっと具体的で卑近なものに置き換える必要があるのではないかと思います。

 

置き換える方法は割と簡単です。簡単なものならとりあえず「目標」を適当にでっちあげて紙にでも書いて、毎日それを達成するために必要なことをやってみるだけです。頭の中で置き換えるのではなくて、やってるうちに勝手に置き換わるので、あまり深く考えず取り合えずやるだけで大丈夫です。

 

もし少し自分にとって難しめなことをやろうと思うならば、環境を変えるのが一番手っ取り早いです。ここでも環境を変えること自体に思考を挟む必要はありません。同じ「目標」を目指す環境(受験とか部活とかまさにそう)にいるだけで、自分の脳内も勝手にすり替わってきます。どうしてもあわなかったらまた環境を変えましょう。

 

結局は人間、「目標」に向かって何かしている時が一番幸せということです。

 

ちなみに、今僕は「目標」がなくて毎日困っています。でっちあげればいいってわかっていてもついつい考え込んでしまう。どんな「目標」がいいか決まったらまた書きます。