とりあえず無題

とりあえず無題

流れを大事にしています

やはり俺の予備校生活は間違っている。

 

 

 高校三年生の夏。

 

 

 

 それは受験の天王山とも呼ばれ、これまで勉強から目をそらし続けてきた者たちが、否が応でも自分の実力と向き合い、他者と競うことを余儀なくされる地獄の季節である。

 

 

 

 この時期にもなれば自分も一人孤独に自習室の机に向かい、ひたすら数字と文字の羅列と格闘し続けているだろう。

 

 

 

 そう考えていた時期が俺にもありました。

 

 

    

    ◇

 

 

 

「ねえねえヒッキー!この問題ってほーていしき?を解くところから始めたらいいかな...?」

 

 

由比ヶ浜さん、比企谷君に数学の質問をするのはそこら辺にいる虫に生きる意味を問うより無意味なことよ。そもそもその問題はx等の文字が含まれていないからそもそも方程式ですらないのだけど。あと、ちょっと距離が近すぎるような…...。」

 

 

 

「ぬぽぽぉぉん!八幡よ!今日の国語の授業の文章は、かの著名な文筆家が書いたにしてはイマイチの出来であったな!なぁに、後10年もすれば我剣豪大将軍作のラノベが受験問題界を席巻するのだがなぁ!」

 

 

 

 一人孤独に机に向かっているはずだった俺は、なぜか予備校の休憩時間にいつもの奉仕部のメンツと昼食を食べることになっていた。もう一人誰か知らないやつがいる気もしなくもないが、そいつのことは心底どうでもいい。

 

 

 

 だって材木座俺の方ばっかり向いて話てくるからうっとおしいんだもん..….。

 

 

 

 しかし、材木座はともかく、他の奉仕部女子二人は教室にいれば必ず目が留まる見目麗しい容貌なだけあって、畢竟その2人と会話をしている俺にも注目が集まる。

 

 

 

 かつて誰にも相手にされない何なら見えないを売りにしていたステルスヒッキーとして某国に標準装備されただけあって、こういった衆目を浴びるのは慣れていない。まあ、自分がその立場なら美女二人に囲まれている男に怨嗟の視線を投げかけていたのは疑う余地がないので何とも言いづらいのだが。

 

 

 そもそもなぜこのような経緯に至ったのか。

 

 

 

    ◇

 

 

 

 俺は一学期のある日、雪ノ下と一緒に予備校の体験授業へと行き、その帰りに寄ったカフェで思い出しただけで自刃したくなるこっぱずかしい迂遠なやり取りの末に、俺と雪ノ下は同じ予備校へ通うこととなった。そこまでは良い。

 

 

 

 だが問題はそこからだ。その翌日、教室でいつものように自分の机に突っ伏して混沌とする世界情勢と今期の深夜アニメの出来について思いをはせながらまどろんでいたところ、突然つむつむと肩を指で揺らされた。

 

 

 

 急に肩に予想だにしていなかった感触を受けた結果、ガタビクッと全身を震わせて跳ね起きた俺がその指の持ち主の方へ振り向くと、そこには心底おびえた様子の由比ヶ浜がいた。

 

 

 

「え、何今の動きキモっ……。や、やっはろー!ごめん起こしちゃって。」

 

 

「気遣いの言葉の前に本音が漏れちゃってるんだよなぁ……。」

 

 

「ほんとごめん!ガチでキモくて口が先に動いちゃって……。」

 

 

「……フォローと見せかけて着実に心を削ってくるその立ち回りなんなの。civで高級資源売りつけてきたと思ったら即開戦してくる脳筋頭脳プレイなの?」

 

 

「ほんとごめんって……。あ、ヒッキー今ちょっと時間良いかな?」

 

 

 腰を曲げて両手を重ね合わせて心底申し訳なさそうにしている由比ヶ浜にを見て、ふっと破顔する。そして、こんな教室でのなんて事のない由比ヶ浜とのやり取りがひどく懐かしいものに感じる。

 

 

 

 

 俺と雪ノ下と由比ヶ浜の3人の奉仕部の関係性は、奉仕部で出会ったその瞬間から絶え間なく変化し続け、そして今年の春にまた大きな転機を迎えた。

 

 

 

 

 もちろん新学期を迎え、由比ヶ浜と俺はクラスが別々になったことも大きいが、由比ヶ浜は俺達に気を遣ってか、奉仕部の部室以外で積極的にかかわりを持とうとすることが少なくなった気がする。

 

 

 もちろん奉仕部の中では新しく入部した小町や、部員でもないのになぜか入り浸っている一色の手前、今まで通りの関係を維持しているつもりだが、それもうまくできているかはわからない。

 

 

 俺の方も元から少なかったとはいえ、自分から由比ヶ浜に対してなんとなく声をかけづらい雰囲気になってしまっていて、お互いの距離はあの一件以来ほんの少しずつ遠いところに来てしまった気もする。

 

 

 もちろん、変化していくことを含めての決断であったし、こういった事態も想定済みではあったが、いざ直面してみると少し寂しい気持ちもある。まあ、こんな感情を抱くのも酷く手前勝手で彼女に対して失礼なことなのかもしれないが。

 

 

 そんな風に物思いにふけってボーっとしている俺を不審に思ったのか、由比ヶ浜はこちらを見つめてキョトンと首を傾けて、先ほどの問いの答えを問うてきたので手短に返答する。

 

 

「ああ、俺は構わないが。場所変えるか?」

 

「ありがとヒッキー!すぐに済む話だからここで大丈夫!えっと……」

 

 

 妙にためを作って緊張した面持ちの彼女から発せられる言葉の裏に、事前にどんなやり取りがあって、これからどんな大波乱を巻き起こすのかを、この時の俺は当然知る由もなかった。

 

 

 

「ヒッキー、予備校ってどこにするか決まってる?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「将来に対する唯ぼんやりとした不安」について

 

僕は芥川龍之介を割と尊敬している。みんなが良く見るあの写真は結構オシャレだし、高校の時授業聞いてるフリして電子辞書で読んでいた短編はとても面白かった。

 

 

面白かったと言ってもあまり内容を覚えていないけれど、確か『河童』が1番好きだったかな。『秋』も入試問題か何かで読んで、それで気に入って全部読んだ記憶はある。

 

 

『歯車』はよく分からなくて、何を意味してるんだろう、何を書こうとしてるんだろう、とかモヤモヤはっきりしないままそこで終わってしまった。高校生だった自分にはちょっと難しかったのかもしれない。

 

 

思い出そうと思って今読み返してみたら、なんだか自分の中にあった「将来に対する唯ぼんやりとした不安」は一旦どこかに消えてしまった。

 

 

色々この後書こうと思ったこともあったけれど、それを書くのすら今はバカバカしい気もする。でもきっと今はどこかに行ってしまっただけで、どうせ明日には、明日来なかったなら明後日には、明後日来なかったとしてもいつかまた何度でもこのぼんやりとした不安はやってくる。

 

 

僕はこの不安の相手をするのにほとほと疲れ果ててしまっている。何に由来するものかは知らないけれど、もうそろそろ勘弁してくれないものなのか。悩まされている時は薬で治るものならそれで良いじゃないかと思うけれど、そこまでするものでもないんじゃないか?と普段の自分は考えている気がする。

 

 

Twitterでも書いたけれど、普段の自分が本当の自分なのか落ち込んで鬱になっている自分が本当の自分なのかの区別も付かない。いや、勿論両方合わせて自分、というのが正解だけれども、それを正解とするにはあまりにも両極端がすぎるというか、自我同一性を保てていなさすぎる気がする。

 

 

話を戻す。最初に芥川を尊敬していると書いたけれど、それは僕が勝手に彼にシンパシーを感じていることも大きい。芥川の文章は、理知的で、インテリ的な視点とセンスが随所に見られて、短編であり、ユニークな話題を扱っても決して格調を失わないというところが魅力だと僕は思っている。

 

 

ただ、僕はこの格調高さやインテリ的な視点やセンスを常に、それこそ最後の遺稿となる文章まで持ち続けているのは、彼がそこに拘りを持っていて、かつ囚われているということでもあると勝手に思っている。

 

 

他人の視点か、自分の視点か、それとも別の何かかは分からないけれど、彼がその感覚を捨て去って楽になることを何かが許さなかったのかなと、思ったりもする。側から見れば視野狭窄な気もするが、自分で自分の首を絞めていくような在り方はどうも他人事とは思えない部分がある。

 

 

後、先程『歯車』を読んでいて目に留まったのは、彼が自分を高く評価し先生と慕う若者を冷たくあしらった場面だ。この後の場面で、「僕は芸術的良心を始め、どう云ふ良心も持つてゐない。僕の持つてゐるのは神経だけである。」というセリフがあるように、彼は自身の良心を信じておらず自分自身を見下しており、にも関わらずそんな自分を先生と崇める他者をも結果的に見下しているのだろう。

 

 

 

 

僕はこの自分の良心を信じていない、というのは単に良心だけの話に留まるものではないと思う。良心というのは定義が難しい言葉ではあるが、自分自身で良心が無いと判断できるのは中々不思議な状態ではないだろうか。

 

 

もし良心を持たない根っからの悪人なんてものがもし存在するとすれば、その人物は自分に良心が無いことを悟ることはないと思われる。なぜなら良心とは結局は何かとの比較で「良」と判断されるもので、自分が一切悪に染まっているのならばそこには良い悪いの価値判断はなく、ただ徹底した唯一の価値観を持った自分が存在する、と認識するだけになるはずだからだ。

 

 

僕はここでの彼は後に「僕の持つてゐるのは神経だけである」と言っている事からも、「良心」だけではなく「心そのもの」、別の言い方をすれば自分自身が何者かといったアイデンティティを失っているのだと思う。

 

 

まさか芥川が本当に芸術的良心も、広義の良心も一切持っていなかったとは到底考えにくい。恐らく、自分の行動基準や価値判断の基準となる良心の一切が、全て他人や社会からの借り物で、自分のものではないような気がしてしまったというのが近い所ではないかと個人的には思う。自分を見失うというのは、彼が晩年神経衰弱に陥っていたことからも説明がつく、というかこれがそのまま神経衰弱の説明かもしれない。

 

長々と書いたけれど、僕は上に書いたような部分に関して芥川にシンパシーを感じている。勿論芥川は僕よりも遥かに学を積んでおり、文筆の才に溢れていて、世間からの評価も雲泥の差がある、というより僕はまだ何事も成していない為世間からの評価は皆無だ。

 

 

ただ、そういった外面の部分は無視すると、芥川の悩みは僕自身の悩みとかなり共通する部分があるように思える。勿論その悩みの部分すら、彼の置かれた境遇やそこから来るプレッシャーを考えれば、その深さも遠く及ばないものではあるけれど。もしくは、実はこれは人類に共通する普遍的な悩みで、それを天才芥川が誰もが共感できるように丁寧に書き紡いだという見方もできるかもしれない。

 

 

なんにせよ、僕が真に怖いと思うのは、僕が尊敬する彼のような立場にあっても、そういった精神の悩みからは逃れられないという所だ。

 

 

僕が彼のようになることは到底不可能であるだろうし、そもそも別の道を歩む可能性の方が高いとは思う。ただ、どんな道を選んで、仮に成功したとしても、この精神の悩みは常に自分につきまとい続けるのではないだろうか。それどころか、きっと死ぬまで逃れることはできないだろうという確信めいたものさえ今は持っている。

 

 

(これは昨日の夜に書いた文章だが、今朝になって見返しみると、あぁ本当に自分の文章は論理が破綻しているんじゃないかというか、元々その辺りを厳密にやろうという気がないんだろうな…とほとほと呆れ返ってしまう。怪しい部分が多すぎて今更書き直す気にもなれないので、芥川評の部分は半分無視して僕の自己紹介として見てくれたら幸いだ。そもそも、こうやって雑に他者の心情を類推(にすらなっていなさそうだが)して、更に自分と偉人を同一化しようとする試み自体が大変お行儀が悪いんじゃないか。)

 

 

 

実家と目標の話

突然ですが、今奈良の実家に帰っています。

 

どうせオンライン授業なのに京都にいる意味がマジのマジのマジで見いだせなかったので。

 

ところで、自分の家を実家と呼べるのは、実家以外の家に住んでる経験があるからですよね。「実家」との対比で「虚家」とでも呼ぶべきなのか。しかし、「虚家」とかいうとなんかブリーチっぽいですね。

 

久保先生ならどんなかっこいいルビを付けてくれるのか。「虚家(ホロウノイエ)」だと、なんか無料同人ゲームのタイトル感が否めない……。

 

 

よく実家を出て初めて親や実家のありがたみが分かるとはいいますが、実際それはそうだと思います。

 

で、ここで面白いのが、実家を出る前までは「実家」という概念がなかったということです。だってずっと家にいる小学生や中学生が自分の家のことを実家とは呼びませんからね。

 

実家をでて初めて実家のありがたみが分かるって、いや、実家出るまで実家はなかったんじゃないの……。という不思議な感じになります。

 

「あたりまえの良さは失って初めて気づく」なんて言いますが、こと実家に関しては、失って初めて「実家」の概念が手に入るわけですね。認識=存在みたいなやつ。

 

そんな例にもれず、僕自身も久しぶりに実家に帰ってくると、実家のありがたみをばっちり感じています。ご飯はちゃんと3食用意されているし、洗濯機は毎日回っているし、家の中も清潔できちんと整理整頓されています。

 

なにより、マロン(犬)もばっちりいるので、コミュニケーションを取ることで不要なストレスを浄化してくれます。

 

で、ここからが本題なんですが、実家にいると時間が余ります。もちろん少し(ほんとに少し)は家事を手伝うし、仕事もするし、授業も少し(ガチで少し)は受けているんですが、それでも時間が余ります。

 

するとどうなるかというと、何かやらないといけない気がしてきて焦り始めます。焦った挙句何も思いつかず、とりあえず仕事を増やしてみたりします。

 

ただ、仕事を増やしてみたはいいもののやる気は出ないので、だんだんたまっていきます。だんだんたまっていくと、「たまっている仕事が存在すること」自体が大きなストレッサーになって鬱になります。

 

どうしてやる気がでないのでしょうか。多分、今考えてみると「目標がない」というところに問題がある気はします。

 

この目標という概念は、根本的に昔から自分にかけている概念で、これがないことで自分の人生は3倍ぐらい不幸になっているとは思っています。唯一目標を持って動いたのは受験の時ぐらいでしょうか。巷でよく、「受験で燃え尽きてしまった人」みたいな揶揄がありますが、自分の場合は受験ぐらいしか真剣に取り組んだことがないので、燃え尽きたわけではありません。

 

って書いたけど、よく考えたら部活はまあそれなりに頑張ってったような気も……。というより、そもそも受験を真に頑張ったのか?という方が割と疑わしくはあるけれども……。

 

まあ、頑張ったかどうかは置いておいたとしても、自律的に目標を立てて動いたのは受験と高校の部活の弓道ぐらいというのはたぶん確かです。

 

自分のサンプル数n=2のうっっっっっっっすい経験でしか語れませんが、目標を立てている時って個別のしんどい事例はたくさんあるんですが、その個別のしんどいことにも「意味づけ」ができてる状態なので、非常に前向きな気持ちになれるんですよね。

 

例えば、個別に見たときに僕自身は「勉強」というものは基本的に嫌いなんですが、「受験」という目標の一部という刷り込みができていると、「勉強」に前向きに取り組めて、しかも「勉強」自体もなんだか楽しい気がしてきます。今ではいわゆる受験でやっていた「勉強」(英文読むとか)は、大学の授業でも全く受け付けなくなっているので、実は「自分は勉強が大好きだったんだ!」ということではないと思います。

 

つまり、目標の魔法によって嫌いだった「勉強」も好きなものに近い、もしくはそれを超える熱量で取り組むことができたわけですが、ここですごいことがもう一つあります。

 

それは、目標自身の正当性、妥当性みたいなものはあまり問題にならないということです。ちょっとわかりづらいのでさっきの受験の例を使うと、「受験」という目標に特に大きな思い入れがあったわけでもなく、何か達成しなければならない理由があったわけでもないけれど、「受験」が目標になると、なんかその目標を達成しなきゃいけない気がして、それに向けて頑張れたということです。

 

これは高校の時の部活も一緒で、元々弓道なんてやったことがあるはずもなく、弓道に対して強い思い入れがあったわけでもないけれど、弓道の試合や審査を「目標」に据えると、なんだかその「目標」を達成したい気がしてきて、それに向けて頑張りたくなったというやつです。

 

つまり、僕の中では「目標」が先か「やる気」が先かという問題には明確に答えが出ていて、「目標」が先ということです。

 

よく僕は何かをする時に「これにいったい何の意味があるのだろうか……。」と考えてだるくなってしまうタイプなのですが、これは恐らく「(自分の人生にとって)何の意味があるのだろうか」なのでしょう。どうも頭でっかちで意味を重視してしまうタイプなので、すぐに意味が見えないとなかなかやる気を出すことができません。

 

そして、「目標」を定めるという行為は恐らく先ほどの(自分の人生にとって)の部分を書き換える行為なのだと思います。つまり、「受験」という目標を定めることで、何か行動をするときに「(受験にとって)何の意味があるのだろうか」という視点を持ちだすことが初めて可能になります。

 

こうなると、「勉強」は行動前に考えてしまう癖を乗り越えることができるようになります。考えてしまう癖は自分が生来持っているものなので変えることはできませんが、新しく持ち出した「(受験にとって)何の意味があるのだろうか」という視点は「勉強」を邪魔するどころかむしろ、「勉強」は「受験」にとって有益だから頑張ってやろう!という気持ちの方向へ持って行ってくれます。別の言い方をすれば「勉強」という行動に意味づけができているということです。

 

結論を言うと、普段からめんどくさがりで何もやる気のできない僕のような人間は「(自分の人生にとって)何の意味があるのだろうか」と考えること自体をやめようとするのではなく(多分無理なので)、()の中を「目標」で書き換える、つまり(自分の人生にとって)という前提を、もっと具体的で卑近なものに置き換える必要があるのではないかと思います。

 

置き換える方法は割と簡単です。簡単なものならとりあえず「目標」を適当にでっちあげて紙にでも書いて、毎日それを達成するために必要なことをやってみるだけです。頭の中で置き換えるのではなくて、やってるうちに勝手に置き換わるので、あまり深く考えず取り合えずやるだけで大丈夫です。

 

もし少し自分にとって難しめなことをやろうと思うならば、環境を変えるのが一番手っ取り早いです。ここでも環境を変えること自体に思考を挟む必要はありません。同じ「目標」を目指す環境(受験とか部活とかまさにそう)にいるだけで、自分の脳内も勝手にすり替わってきます。どうしてもあわなかったらまた環境を変えましょう。

 

結局は人間、「目標」に向かって何かしている時が一番幸せということです。

 

ちなみに、今僕は「目標」がなくて毎日困っています。でっちあげればいいってわかっていてもついつい考え込んでしまう。どんな「目標」がいいか決まったらまた書きます。

現役大学生がオンライン授業について思うことを率直に書いてみた

率直に書くと、オンライン授業割と好きです。

 

「大学生の日常も大切だ」というハッシュタグTwitterで流行ったこともありましたが、「うーん、これでオンライン授業終わっちゃたら嫌だなあ」なんて思っていました。

 

そういえば、友達に話を聞いたりしていると、地方の学生人数が少なめな大学ではもう対面授業が完全に再開しているところもあるそうですね。僕が通う京都大学では、まだほとんどがオンライン授業で、僕に関しては今のところ対面授業はまだ1つもありません。

 

なんで好きなのかというと、やっぱり基本的に気楽だからです。普通に考えて大学に行かなくていいって言うのはものすごいメリットな気はします。

 

そもそも、大学生は普段から「絶起」(「絶望起床」の略。寝坊して絶望的な時間に起きることを言う。)とか「自主休校」(大学の授業を自主的に休むこと。サボり。)とか言ってるんだし。

 

例えば、僕は今奈良の実家に帰っていますが、オンライン授業じゃなかったらこれはできないことです。前期の期間中に、僕はあれこれ旅行したりもしていましたが、これもやっぱりオンライン授業じゃなかったらできなかったことです。非常に良いですね。ビバオンライン授業。

 

ただ、1つ気になることはあります。それは、僕が1回生だということです。

 

つまり、僕は、というより僕をはじめとする1回生の多くの大学生は、「オンライン授業」と比較する「対面授業」、というよりも「普通の大学生活」というものを一切知りません。

 

少し話がそれます。これは常々思っていることですが、大学生が「対面授業」を再開してほしいと言う時は、むしろそれは「対面授業はどっちでもいいけどサークルや飲み会といった対面での大学でのやり取りから派生するあれこれを再開してほしいから、とりあえず対面授業を再開してほしい」という意味合いが強いものだと思います。それを全てひっくるめたものが「普通の大学生活」というものです。

 

いや、もちろん、一部の優秀な大学生は「ゼミナール形式の授業でより議論を深めたい」「自分が疑問に思ったことを教授に直で質問したい」とか考えているのでしょうが、残念ながら(?)そういった人は今の大学では少数でしょう。

 

というか、よく考えてみると、今書いたことですら「対面授業」そのもののメリットかどうかといわれると微妙なところはあります。別にオンライン授業でも「ゼミナール形式の授業でより議論を深める」ことはできますし、むしろオンラインの方が対面での心理的障壁が取り除かれて、議論が進んでいたと前期の授業を評価している教授もいました。

 

「自分が疑問に思ったことを教授に直で質問したい」というのも、よくよく考えれば、オンラインで質問したらええやんという話です。オンラインだから質問には答えません、というような意地悪な教授は少ないでしょうし、むしろ多くの教授は授業後に質問の時間を取ってくれています。(ほとんどだれも残って質問とかしないけど)

 

結局、上の2つに関しても「対面授業」自体がどうこうというより、「対面授業に付随するあれこれ」が問題になっていると言えそうです。「ゼミナール形式の授業でより議論を深める」というのは、より正確に言えば「ゼミナール形式の授業後にさっき話した人と仲良くなって、授業の話やそれ以外の話をあれこれしながら次の授業に一緒に向かう、もしくは一緒に昼食を食べる」だと思います。

 

「自分が疑問に思ったことを教授に直で質問したい」というのは、なんでしょうか。多分、正確に言えば「教授に顔を覚えてもらったり、とりあえずすごい人と議論をしてみたい」とかではないでしょうか。

 

なので、僕は対面授業とオンライン授業の比較を行う際に、その学習効果だけを抜き出して行うことが適切だとは思いません。いや、より正確に言えば適切でないというよりは、適切かもしれないけれど大学生は誰もそんなところを問題にしていない、といった感じでしょうか

 

 

その意味で、ラジオ先生のこのツイートはなかなか大学生の本音を捉えている気はします。ただ、実際は授業がなかったら生まれない交流というのもあると思うので、これでみんなが上手くいくかどうかは分かりませんが。

 

今の1回生は「普通の大学生活」を知らない、という所に話を戻します。

 

「普通の大学生活」を知らないということは、分かりやすく言えば「普通の大学生活」を知らないということです。つまり、上の方で少し話がそれた部分の「対面授業に付随するあれこれ」みたいなのも、全部僕の想像だということです。

 

もしかしたら、大学の対面授業というのは、ゼミナール形式であっても僕がさっき言ったものよりももっと無味乾燥で、誰との交流もないものなのかもしれません。別に対面授業があったところで、教授と話す機会はほとんどないかもしれないし、昼に1人で学食を食べているのかもしれません。

 

反対に、大学というのはとってもすごいところで、対面授業が終わるとみんなで議論や世間話に花を咲かせたり、みんなでご飯を食べに行ったり、教授とも親交を深められるような場なのかもしれません。(これはたぶん違う気がするけど)サークル活動を通して、たくさんの仲間を増やせるものなのかもしれません。

 

結局、「普通の大学生活」がなんたるかを知らない1回生は、すべて想像するしかありません。で、この想像という行為は、その想像するものがバラ色のものであればあるほどなかなかしんどいものになる気がします。

 

いつ再開するかもわからない、再開したところで元通りの生活に戻るかどうかもわからない、そんな状態のまま「バラ色のキャンパスライフ」に思いをはせ続けるのはなかなかしんどいです。つらつらです。

 

なので、僕は早い段階で「バラ色のキャンパスライフ」とやらに見切りをつけてしまいました。「バラ色のキャンパスライフ」どころか「大学そのもの」に見切りをつけた、といっても過言ではないかもしれません

「そっちがこっちの思い通りになってくれないなら、もうお前には何も期待しねぇよ!」的なあれです。旅行だったり、大学外の人と遊んだり、仕事に力を入れてみたりと、意図的に大学から離れようとしている気がします。大学から離れて自分の生活を成り立たせる術を探しているように見えます。ツンデレみたいですね。(デレる気はないけど)

 

最初に僕がオンライン授業が好きだといった意味は、こういうところにあったりします。オンライン授業なら大学と極力関わらずに済む、大学に見切りをつけた自分にとってはオンラインが都合がいいと、こういうわけです。

 

こんな僕も、実は4月、5月ごろまでは早く「普通の大学生活」を体験してみたいと思っていました。一応浪人して京都大学に入ったこともあり、「バラ色のキャンパスライフ」を楽しみに勉強を頑張っていたという部分もなきにしもあらずだったと思います。

 

自分のTwitterの方も今とはずいぶん趣が違いました。「大学生だけオンライン授業を強いられるのはおかしい」といった感じの意見を言ったり、似たような意見の有名人のRTが多かった気がします。

 

ただ、コロナの流行はこれからも長く続くだろうし、きっと今まで通りに戻ることはもうないのではないか、と薄々気づきはじめたときに、これ以上大学での「あったはずの今」「これからあるはずの未来」といったものを想像することに疲れてしまいました。

 

そこで僕が取った選択が「諦念」でした。大学でのすべてを「ないもの」ということにして諦め、大学以外のすべてを充実させることに力を入れようと決意(?)しました。

 

その決意のもとに存在している今現在の生活は、自分自身でもなかなか気に入っています。旅行に行ったり、友達や彼女と遊んだり、一度やってみたかった書くことを仕事にしてみる等、色々なことをやってみています。もちろん今でもたまに欝になりますが、これは自分の元々の性格によるもので、別に「普通の大学生活」があっても多分定期的になっていたと思います。

 

もちろん、「普通の大学生活」に未練というか、どんなものだろうという漠然とした憧れというか、単純に一度体験してみたいという好奇心がないわけではありません。ただ、それよりも今の大学への「諦念」の先に見つけた今の生活を、大学だけには邪魔されたくないという思いが強い気がします。

 

自分でもなかなか勝手なことを言っているという自覚はありますが、こういう意味で僕は今の「オンライン授業」が続いてほしいと思っていますし、なんなら大学自体が休校になってしまえば、とすら思います。

 

……。

 

まあ、こんなこと言っててもどうせ「普通の大学生活」が再開したら「大学楽しー!」なんて無邪気に言ってるような気もします。

 

まあ、そうなるかもしれないけれど、今の素直な感情を一応文章に残しておくことは(自分にとって)意味があるかなと思い、こんな文章を書いてみました。

 

とりあえず、今一番やってほしくない、一番めんどくさいのは中途半端に大学の対面授業が再開されて、好きに旅行に行ったり、帰省したりできる今の生活が失われ、しかも「普通の大学生活」も手に入らないやつであることだけは確かです。湊総長、頼むから勘弁してください。プリーズカムバックゴリラ総長。

 

他の大学生、特に1回生の皆さんは現状をどう思っているのか、ぜひ本音を聞いてみたい気もします。

「文章を書きたい」は無理がある

「あー、何かブログに書きたい」、こんな考えが最近頭の中で四六時中渦巻いていたりする。気持ちは分からんでもない。文章を書いたら達成感はあるし、他の人が褒めてくれるかもしれないし、自分の思考の整理にもなる。時間を有意義に使ってる感も出せるし、なんなら「あー、何か文章が書きたい」って思ってるなんてなんかカッコいい気もする。

 

ただ、そうやって考え続けてるにも関わらず僕はこの1ヶ月間何も書いていない。浪人してる時と比べて今はコロナのおかげで時間だって無限に近いほどたっぷりあるのに。なぜかと考えてみたら理由は簡単。「文章を書きたい」は一見純度の高い欲求に見えるが、実際のところ空っぽで中身が一切詰まってない、無駄と言っても差し支えのないノイズ的思考だからだ。

 

これは「文章を書く」という行動そのものに焦点を当ててみればすぐ分かる。「文章を書く」とは言いつつ、本当に自分が書いているものはなんだろうか。それは当然、思考や感情、あるコンテンツについての解説や紹介といった具体的な内容である。つまり「文章を書く」とはすなわち「ある内容を書く」事であり、文章を書きたいと考えていたってそのある内容は一生思いつくはずがないのだ。

 

今までの自分を振り返ってみても、大体文章が書ける時というのは面白いマンガ、アニメ、本を見た時、新しい概念を学んだ時、何か感情を突き動かされるような経験をした時など、「文章を書く」という行為からは離れて自分がある文章を生み出すだけの質量を持った内容を得た時である。

 

反対に、特にすることがなく暇で、ただ漠然と何かをしなければいけない、そうだ文章を、ブログを書こう!という時にマトモな文章を書けた試しがない。にも関わらず、「文章を書きたい」と考えているのがあたかも高尚な欲求だと錯覚してそれに囚われ続けるからどんどん何も書けない沼にハマっていく。

 

「文章を書きたい」という欲求の正体は、はじめの方で述べた通り達成感を得たい、他人に褒められたいと言った以前何かについて文章を完成させた時に付随して得られた諸々を得たいという欲求にすぎない。

 

……。

 

久しぶりにnote開いてみたら、☝のなんかこわーい口調の文章が下書きにあったんだけど、なんかこの時気分でも悪かったのかしら。

ただ、今日noteで書こうと思ってたのも実はこの話題っていう方が実際はもっと怖い。いちいち文章書く手間は省けたけど、この半年間同じ事考ええるってことが証明されてしまったってことでもあるし……。

「渋谷シャドウ」感想

「渋谷シャドウ」感想

 

渋谷の街を舞台にして、上京して連絡の取れない兄を探す青年リクと、それを助けるバンドのフロントマンのリョウが主人公の群像劇。

 

この作品の魅力は良い意味での「自主製作映画」といったところ。主人公二人を演じる俳優は、どちらもこの映画が初出演。演技もどこかぎこちなさは出ているものの、リクにとってそれは上京した不安、そしてリョウにとってはバンドを率いていく自負や頼り強さのようなものを強調する形になっていて、結果的に良い効果を出していると思う。

 

また、この作品は渋谷を知っている人、知らない人で大きく見方が変わる作品ではないかとも思う。監督を務めた谷健司自身も状況を経験しており、パンフコメントでは「上京して20年、仕事や遊び含めて1番愛着のある街です。」と述べている。渋谷を知っている人にとってはなじみの場所が出てきたり、作中で表現される渋谷の独特なダーク、とまではいわないがグレーな部分にも共感できる部分は多いのではないだろうか。反対に、渋谷を全く知らない人は、上京してきたリクと同じ目線で渋谷の街で人ごみに翻弄されたり、人のやさしさに触れたりという渋谷のありのままの姿を追体験できると思う。

 

ストーリーに関しては賛否両論あるかもしれない。この作品では1時間丸々「リクが兄を探す」ことを主軸として話が進んでいくので、少し表向きのテーマとして弱いと感じる人もいるかもしれない。まあ、そのあたりは群像劇の常ともいえるが。ただ、実際に監督が表現したかった「渋谷」という部分に関しては十分に表れていたし、個人的には最後の締め方に非常に感心したし、なんともいえない「渋谷っぽさ」というか群像劇ならではの「リアルっぽさ」を感じた。ラストも「分かりづらい」と感じる人もいたようなので、ここも賛否両論はあるかもしれないが、ぜひ自分の目で見て確かめてみてほしい。

 

 

また、この映画は曲に非常に恵まれている。劇中ではリョウのバンドが路上でライブを行うシーンがあるが、そこで演奏する曲は劇中でのリョウの格好良さや、渋谷の雰囲気ともすごくマッチしていて自然に頭に入ってくる。EDで流れる主題歌も、バンドの曲とはがらりと雰囲気が変わるものの、ふわーっとしている本編全体を一気に引き締め、物語として完結させる役割を担っていたと思う。

 

総括として、撮影や役者、舞台に関しても全体的に「お金はかかっていないんだろうなぁ…」と感じる部分は多々あるものの、それをただのデメリットにするのではなく、うまく生かして「渋谷」をうまく表現した佳作だと思う。

やはり俺の『俺ガイル』の感想記事が人生論になるのは間違っている。

大切だから一緒にいたいのか、一緒にいたから大切なのか。

 

 

 

関係性に名前を付けたから壊れるのか、付けなかったから壊れてしまうのか。

 

 

 

そもそも、壊れずに永遠に続く本物の関係なんてこの世に存在するんだろうか。

 

 

 

もしそんなものが存在したら、そんな強固で綻びることのない理想の関係が実際に存在したら、もはやそれは本物とは呼べない作り物ではないのだろうか。

 

 

 

 

 

青春ラブコメは間違っている、間違っているのは初めの1歩目から全てなんだろうな。

 

 

 

 

人の気持ちは結局感情で理屈なんかじゃ到底表せない。それを何とか理屈で説明しようと、整合性をもたせようと、苦悩する。

 

 

 

 

その姿が根本的に間違っていて、でもそれはとても愛おしい姿で、その悩み苦しむ姿だけは本物なんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

ゲームのようにあるセーブポイントに立ち戻ってもう一度自分が過去をやり直せるとしたらどうだろうか?

 

 

 

 

 

どうだろう、僕にはわからない。何か決定的に大事な場面、そういうものは確かに存在したような気はする。

 

 

 

そこで自分がとった行動が正解かどうかなんて分からないし、正解だったと自信を持って言えることなんてほとんどなかったかもしれない。

 

 

 

 

それでも、たとえもう一度今の自分がその場面に戻って何かをしてもより良い道を選べるだろうか?

 

 

 

そうやってやり直した先にある未来は幸せだろうか、その先にいる自分は本当の自分なのだろうか?

 

 

 

答えは否、なのかどうかすら分からないけれど何かが違うのではないか、と自分は思っている。

 

 

 

そう思いたい、というただの希望や願望の類なのかもしれないけれど。

 

 

 

そもそもこんなのはただの思考実験にすぎなくて、そんなやり直しは現実には存在しないし、自分は自分が選んできた道の途上にいるただ1人の、今の自分でしかない。

 

 

 

 

「being on the road」「途上にあること」。『深夜特急』に出てくる禅、そして人生の本質を表したもので、僕が本当に大好きで大切にしている言葉の一つだ。

 

 

 

 

振り返る過去も、苦悩してもがいている今も、そしてこの先続いていくであろう未来も、

 

 

 

 

全てが「being on the road」であり、正解も不正解も、やり直しも問い直しもあり得ず、ただひたすら道半ばの存在として自分は歩き続けている。

 

 

 

 

人生が常に途上にある。ならば一体終着点はどこにあるのか。死が終着なのか、それとも死やその先の存在が不確かな世界を含めてやはり途上にあるのか。

 

 

 

 

色々と考えは尽きないけれど、それは途上にある自分の考えの及ぶ事ではないんだろう。

 

 

 

 

「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」

 

 

 

今の自分が行うのは途上にある存在として、ただひたすらに今を生きていくことであり、それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

 

だからこそ、あの時の自分が見当違いかもしれないけど、真剣に考えて選んだ道、そしてその先にある今の自分を少しは認めてあげた方がいいんじゃないか。

 

 

 

 

過去を遡れない、今を生きる人間にはそれしか出来ないし、それが人間のあるべき姿なのかもしれない。

 

 

 

(これは去年の10月頃に書いて下書きに埋めていたものを、今になって少し手を加えて公開したものです。根本は変わっていないと思いますが、昔の自分の方が全体的に前向きで元気なオーラが出ているなぁ、と手直しをしながら憂鬱になっていました。羨ましい限りです。)